adios ★ egatti

egatti(エガッティ)は今日も元気に生きています。

【教育】モンテッソーリ教育とゆとり教育

ちわーっす。egattiっす。

 

 

唐突ですけど。

モンテッソーリ教育をご存知でしょうか。

 

 

出た、

 egattiの「ご存知でしょうか」シリーズ。

そんなに知らないくせに紹介するシリーズ。

詳細は「ググってね」シリーズ。

 

 

Googleについて知る

先日、google社の20%ルールについて触れました。

egalitanian.hatenablog.com

  

そして、たまたまですけど縁があって、図書館でこんな本に出会ったので、今、ぼちぼち読んでます。

 

 

グーグルの働き方や仕組みが紹介されてる本です。まだ読んでる途中。

第1章の最初の方で、キーワード「モンテッソーリ教育」に出会いました。Googleの共同創立者セルゲイ・ブリン」と「ラリー・ペイジ」が、共通して受けた教育だそうです。

 

聞いたことあるけど、詳しく知らない。確か、子どもたちの意思を尊重する教育方法で、子どもたちが自由に、自ら学ぶことを最も重視する、とかそういう感じ。

 

さっそく「Google」で「モンテッソーリ教育」を検索してみると、確かに「モンテッソーリ教育を受けた著名人」に お二人のお名前が紹介されていました。

 

他には、

そうそうたるメンバーですね。

 

 

自主性を育てる

自主性を育てることは、とても重要で理想的ですが、とても難しいなと思います。

 

教室にキレイに並べられた座席に座り、決められた科目を学習し、時間がくれば終了する。毎日その繰り返しだった子ども時代。振り返ると、なーんにも考えてなかったなーっていう印象。とても良い先生に何人も出会ったし、大切な友だちもいた。でも、自分で考えて進んだ道って全然浮かばない。大学生の時にヒョンなことからバイクの免許を取った、くらいかな。あとは、いつも誰かが言うことに流されていた気がする。何の違和感もなく。

 

同じ教育の中でも個人差は生まれ、自主性の高い人低い人が見えてくる。自主性の高い人が褒められる反面、規律の中で集団行動を成功させるため、個人の主体性を制限する必要が出てきてしまう。いや、言い方を変えよう。制限した方が、コントロールしやすい。

 

モンテッソーリ教育の自主性

モンテッソーリ教育では、大人は一切、指示をしない。あくまで、やるのは支援だけ。子どもが自主的に活動するのを見守り、サポートするタイミングを逃さず、成長できる環境を常に提供する。大人の都合で、行動を制限することはない。子どもたちは、お互いの行動を見たり、助けたり、譲り合ったりしながら学んでいく。

 

そんなこと、本当にできるの?すごい。自分たちの世界とは全くかけ離れているように感じます。

 

いや、待てよ。

日本でも、ちゃんと自主性を重んじる教育をやっているじゃないですか。

いや、やっていた、というべき?

そうです。ゆとり教育です。

 

ゆとり教育の自主性

ゆとり教育って、ただ勉強の量を減らしただけではなくて。

暗記だけの詰め込みではなく、目的をもって考え、なぜそうなるのかを追求する。総合的な学習の時間では、教科にとらわれない多様な経験を積み、自ら考え、問題解決能力を養う。egatti の言葉では全く足りませんが。たくさんの理想が詰まった教育方針かと思います。

 

かつて、egatti は 小学校の教育実習を経験させていただきました。子どもたちの貴重な時間を私の経験のために使わせてもらって。失敗もあったので、心からそう思います。ありがとう、子どもたち。

 

そして、何を隠そう、その当時は「ゆとり教育」真っ只中でした。

  

f:id:miztandgch:20180527165501p:plain

 

授業をする際、始めに、その授業で達成するべき「めあて」を決めます。従来は、このめあてを教師が発表していました。しかし、自主性を育てるため、教師はまず問題提起だけを行い、子たちから「めあて」を引き出すように導きます。難しい!ここに例を書こうと思ったけど、無理でした。だって、難しいもん。

「拡大図、縮図について調べよう」

を言ってもらうために、どんなストーリーを考える?年間どれほどの授業する内の、たった1コマの授業の冒頭だけで、こんなに悩むなんて・・・。

 

詰め込み教育が問題視されて以降、たくさんの議論がなされ、教育が改善され続けていると思いますが、教える先生たちが 多大な負担を背負ったまま、自分たちが受けたことない理想的な授業をするのは、並大抵なことではないと思うんです・・・。当時で言えば急に「ゆとり教育」せぇって言われても、戸惑いは半端なかっただろうなと。それでも、情熱を持って向き合う先生たちが全国にたくさんいたことだろうと思います。実際に「ゆとり教育」を受けた人たちが、今までと違う感覚を持っていることを感じます。

  

今の若手の中で、敬語は苦手だけど人前で堂々と話せるっていう人、多い気がしませんか?物怖じしないというか。あと、遅刻していても急いでこようとしないとかいうエピソード聞きますけど、必要性を自分で考えるようになったからじゃないかな、と。急いではいるけど、お昼ご飯はやっぱり先に買っておいた方が効率的だから、とかね。なんでダメなの?それに対して、ダメなものはダメだ、と言っても響かない。ルールだから、と言っても、そのルール自体に疑問を感じる。自分の仕事の必要性をちゃんと理解していて、今すぐ行かないといけない場面なら、彼らは急いで現場に向かうんじゃないかなぁ。その場面でも行けない人、というのは、どんな教育受けていても、いつの時代も年代も一緒のような気がします。

ルールを守らない人を許せ、という意味ではありません。

社会のルールに順応できない人を、自分で考える力のある人かもしれないと転換できて、さらに、本当に自分が正しいかを考えるきっかけになる。本来の意味や目的を伝える必要があるかもしれないし、正論だけじゃダメなことを教えないといけないかもしれないし、そもそものルールを見直すチャンスになるかもしれない。

ポジティブすぎ?

 

egattiなりのまとめ

異なる教育を受けた人が価値観を共にするのは難しい。少なくとも、育った時代も環境も違う、価値観も全く違う人たちが集まって仕事をしているということを、改めてお互いに認識できたら、だいぶやりやすくなるかも。国全体で言えば、教育を変えるなら、教育を終えている大人も変わっていかないといけないんじゃないか、と問いかけている最中です。

 

今日の内容は、批判もありそうだなぁ。知りもしねぇのに、ベラベラと語りやがってと。

初めての炎上・・・

 

ってことはないかな(^^;

 

続き、読もうっと。

 

 では、また。